見つめる鍋は煮えない

生きることがどういうことなのかは解らない。

生きることは、死に方を考えることだろうか。

最初に自殺しようと考えた人間は
人生を永遠に侮辱してしまったのだ。
人生は大いに気を悪くしている。

頭の中で死者と戯れることはできる。
まだ、我等は、死を経験していない。

我々はまだ、死ぬ過程である。
生まれたことが、結果である。

生きて、死ぬ。
死の瞬間まで

命あるもの
人間は、死ぬことを忘れることだ。
そのことで初めて
「本当に」生きたといえると私は思う。

手前の人生が戯れにすぎなかったのなら
死は手前にとって真剣事だろう。
だが、手前が真剣に生きたのなら
死ぬは手前にとって1つの戯れであろう。

時間を忘れて、自分を忘れ
1つのことを、愉しむ。

自分のやってる行為それ自体が報酬になる。

我々は食物連鎖の頂点にいる。我々の命は
他の命の犠牲の上に成り立っている。

食事中にはそのことを思い出してはならない。

グルメであるべきだ。
食事の最中は一切を忘れ
無になって味と戯れること。

私は七味唐辛子をふりかけに、玄米を食し
また、よくはちみつを飲んでいる。
刺し身なんかを食べない日には、亜麻仁油を摂る。


私は生きるモチベーションが、容易く枯渇する。

私の楽しみは、ライフハックすること。
それを言語化して、記録してゆくこと。

時を忘れて行為を純粋に愉しむこと
それが歓喜、生の営みを続けるということ。

死者も、我々が完全に忘れてしまうまで、本当に
死んだのではない。

死者とは踏切りのように常に点滅していて
付いたり消えたりするものかも知れない。

自分自身が消える。
時間の感覚がなくなる。

私は常に好きなものだけを見つめていたい。