売り声絶えて春近し

私に見える世界はモノクロームだ。
実際には勿論ポリクロームだが
何を見ても色褪せてみえる。

ポリクロームってなんだか
活動休止してそうな
音楽バンドにいそうなネーミングだなと思う。

私は灯油販売の「雪やこんこん」を聞くと
どうもイヤな心もちがしてならない。

理由は単純。他人の家庭のにおいがするから。
空気を共有して分け合うような和が嫌いだから。

統合失調症と厭人癖は馴染みが深い。

食わず嫌い

感情は傷つくもの。
傷つけられて傷つくもの。

傷つけられることを許せない相手は
私にとって、愛することのできない相手。

自分が傷つけられることを許せない相手と
話さなければならない場合は酷である。

例えば薬局で私にタメ口の看護師。

そういう相手と話した夜は
夜も眠れなくなる。

統合失調症で対人に支障の出る私の考え。

人間はひとのアイダ

私は人間力を高めよう
器の大きさを広げよう
という姿勢が、ない。

人間力」とは
政府が定義するところによると

「社会を構成し運営するとともに
自立した1人の人間として力強く
生きていくための総合的な力」

と言われている。

器というのは度量が狭いか広いかである。

武者小路実篤の詩を最近知った。


「一個の人間」

自分は一個の人間でありたい。
誰にも利用されない
誰にも頭を下げない
一個の人間でありたい。
他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかわり自分もいびつにされない
一個の人間でありたい。

自分の最も深い泉から
最も新鮮な
生命の泉をくみとる
一個の人間でありたい

誰もがみて
これでこそ人間だと思う
一個の人間でありたい
一個の人間は
一個の人間でいいのではないか
一個の人間

    ○

独立人同士が
愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。
それは実に美しいことだ。
だが他人を利用して得をしようとするものは、いかに醜いか。
その醜さを本当に知るものが一個の人間。

武者小路実篤詩集


私のような統合失調症患者には
人間力も器も無きに等しい。

1人の人間として機能していないなら
人権がなくとも当たり前なのだろう。

私は、まともなおとなにはなれなかった。

習慣は人の運命になる

人は己の口から発せられた
言葉通りの人生を歩むことになる。

1.できない

2.やれない

3.わからない

4.でも

5.だって

6.とりあえず

7.しょうがない

あなたはこれらの言葉を普段
使ってはいないだろうか?

かのマザーテレサの名言は
今ではよく知られている。

思考に気をつけなさい
それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい
それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい
それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい
それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい
それはいつか運命になるから。

人の思考パターンや考え方は「習慣」
によって形成される。

怠惰な習慣を送っていれば、その分
怠惰な思考パターンや考え方が見につく。

常に自分を律して行動できている人は
思考パターンや考え方も自然と
自律的なものへと形成されていく。

考え方そのものを変えようと思っても
そう簡単には変わらない。
行動そのものを変えることによって
考え方は後から変わってくるものだから。

効果的な習慣を身につけることで
次には「価値観」がどんどん高まっていく。

価値観が高まれば、私たちの意識
そのものが根本から変化する。

私は薬を飲むこともあって早寝
早起きをするように心がけている。

寝るときは「プラスの状態」
をつくるようにしている。

寝る前に望ましいビジョンを描くことで
プラスの状態を意図的につくっている。
自分の気持ちや感情もプラスになるからだ。

その結果、睡眠の質も深くなり
良い循環をつくり出すことができる。

母のために生まれて母のために死ぬ

「行動せずにはいられないほど実現
したい未来」というものが私にはない。

私は何のために生きてきたのか?

「母のための人生」だったと言い切れる。

今でもまだ、母のために生きている気がする。

「子離れ」できない統合失調症の母のために。

母は私を必要としていた
私は母に必要とされていた。

子は鎹、生活してゆくために私が必要だった。
私がいなければ、母は生活してゆけなかった。

母の遺伝子を背負って統合失調症になった。
私も今では精神薬に依存して生きている。

それだけの人生。
愛着障害の一生。

声を観る

観世音菩薩とは
世の中のなやめる衆世の音
すなわち声を観て、いつでも
どこでも、すぐ助けに来て下さる
如来の慈悲の働きを象徴している。

音を聞くと言わないで
音を観るというのは
なぜかというと

音を聞くというのは単に
我々人間が耳という肉体的聴覚
によって音を聞くだけのことをいう

のにたいし、心を持ってその音の
本質を洞察する場合には
「音を観る」という。

心をすませば聞こえる声(心の声)がある。

その時々の感情に付き従うこと。

神は自分の中、自分の外、どこにでもいる。

虚無リンピック

何もなく虚しい・なんの価値も
みとめられないという意味の
"虚無"と、世界各国・地域の選手が
スポーツで競う"オリンピック"を
組み合わせた造語。

得るものがなにもない・全く
意味を見いだせないといった
感情を抱かせたものや
作品に対して使われる。

統合失調症の私は
同じく統失の私の母と連れたって
映画を見にいったことがある。

母の方はもう入院していたが
私の方はまだ大学生であり
医師の診断も受けていなかった頃の話である。

劇場にアーロと少年という映画を見に行った。

なんの感慨も得られなかった。

ストーリーも、思い出したくとも思い出せない。
映画の名前すら、"ディズニー 恐竜"
とヤフり、ようやく"改めて知る"ことが出来た。

映画を見たということと
映画のラストシーンで人間の子供の手形と
恐竜の子供の前足の(いわゆる)手形が
ベチョっベチョっと並んで刻まれる
その泥の不快な効果音と共に記憶している。

中学・高校の頃、毎日が辛く
(あまりに辛いので)
感情なんかなくなればいい
そんな風に毎日思っていた。

それが、
皮肉にも統失を引き寄せたのだろうか。

遺伝というのは否めないが、やはり
それでも私の感情の薄いせいではなく
明らかに例の映画は虚無リンだった。

私の母との日常も、まさかそんなことはないが
映画化されれば、虚無リンピック金メダル級だ。